なべ底不況

年別に分け終わったら、同じような写真があった場合は良いものだけを残して、あとは思い切りよく捨てます。面白いな、おかしいね、といった写真は別にして、気に入らない写真は全部捨ててしまいます。分類が終わったら、順番に貼っていきます。糊によってはプリントを変色させるものもあるので、写真専用の糊や接着剤を使うことをおすすめします。何年分もの写真ですから、思い切り捨てたつもりでも、一冊や二冊のアルバムでは納まりきれません。アルバムは同じものを使えば、本棚に並べたときの見ばえもよくなります。

お気に入りの写真を大きく伸ばし、額に入れて楽しもうという人は、飾る場所は、たとえ部屋の中でも太陽光線の差し込む明るい場所は避けたほうが賢明です。できれば、少し暗めの玄関や廊下、居間なら窓や縁側から離れた場所にしましょう。カラープリントはとてもデリケートで、太陽光や、蛍光灯の直射光でも槌色します。高温や湿気も大敵です。撮影済みのフィルムも、プリント同様、少しサボるとすぐにたまってしまいます。いちばん困るのは何を撮ったかわからないときで、急にネガが必要になったときにひと苦労します。現像の終わったフィルムは、ネガカバーの上に撮影年月日と内容をできるだけ詳しく書き、通し番号を打っておくと、のちのち便利です。

撮影済みのフィルムを破損やキズ、湿気によるカビから保護するために、専用のアルバムや除湿装置のついたスチール製キャビネットも発売されていますが、わたしはフィルムケースと同じ幅の四角いお菓子の空き順に、シリカゲルの袋を入れて使っています。最近は写真屋さんでプリントを受け取ると、その場でネガをゴミ箱に捨ててしまう若いお嬢さんもいるそうです。究極の整理方法ではありますが、そこまではおすすめできません。

私か社会人になった昭和三十三年は、いわゆる「なべ底不況」が頭上に重くおおいかぶさっていた時代で、就職氷河期といわれるいまとそっくりでした。ところが幸運にも、いちばん働いてみたいと願っていた出版社が、写真好きの一青年にすぎなかった私の夢をかなえてくれたのでした。けれども、入社後わずか五ヵ月で病気になり、長期療養を余儀なくされてしまいました。専務だった池島信平さんに報告にいくと、俺も同じ病気をしたんだ、本が読めるぞ、うんと読んでこい、と言って療養所に送り出してくれました。まだ仮採用中だったので、採用取消しかもしれないと覚悟していただけに、心底うれしかった。

次の年の正月、入院先の療養所に佐佐木茂索社長から速達が届きました。「週刊誌を出す決心をしたが実に手不足だ、編集部始め写真部は極端な兵力不足で増員の方案に苦慮している。君が病気をして残念だが何とか切り抜ける、案ずる事もない、悠々と療養し完全な健康体になるまであせらず十分加療することが目下の君に課せられた唯一の義務だ」と書かれていました。作うれしくて手紙から顔を上げられませんでした。まさかと思っていた社長からの手紙は、どんな最新薬よりも何倍もの回復力を与えてくれました。いまも大切にとってあります。

職場に復帰し、カメラマンとしての最初の洗礼を受けたのが六〇年安保でした。国会周辺に渦巻く三十三万人のデモ、怒号と汗と煙の中で、一人一人の意志が巨大なエネルギーに膨張してゆくさまを目の当たりにして、体の震えが止まりませんでした。東京オリンピックも忘れられません。当時は、雑誌はまだIOCに正式な報道機関として認められていなかったので、一般席の切符を買っての取材でした。国立競技場の狭い席から望遠レンズを構えると、前の人の頭にぶつかってしまいます。通路に面した席の人に、社名を名乗って席の交換をお願いすると、条件の悪い席に移るにもかかわらず、ほとんどの人が快く席を譲ってくれました。