アメリカは金融危機にどう動いたか

時代は下って二〇〇八年、リーマンーショックに端を発する金融危機は、アメリカから全世界に波及した。日本のバブル崩壊よりも彫まじいスケールの大恐慌がやってくることを誰もが覚悟した。だが、このとき、アメリカの金融当局は、迅速かつ大胆な対応を取ることで、危機がドミノ倒し的に拡大することを食い止め、わずか二年ほどで株価もリーマンーショック前の水準を回復している。失業率はまだ高く、金融危機の爪痕は残るものの、二十年経っても、株価がバブル時の水準の三分の一を下回っている日本の状況とは大きな違いがみられる。アメリカはいかなる対応を行って、危機の進行を食い止めたのか。

一九八〇年一月を基準(=100)とした、日米のマネタリーベースとマネーサプライの変動を示している(データは、日銀及びFRBの統計データによる)。八〇年代後半から九〇年代初めのバブル経済の時期には、日本のマネーサプライはアメリカよりも大きな伸びを示し、八〇年代の十年間で、三倍近く膨らんだ。それに対して、アメリカ金融当局は、マネタリーベースを終始日本を上回るペースで増やし続け、九〇年に入ると、その勢いをさらに強めた。一方、日本は、バブル経済崩壊という未曾有の危機に陥ったにもかかわらず、アメリカに比べると実に緩慢なスピードでしかマネタリーベースを増やさなかった。

その結果、二つのことが起きた。一つは、アメリカのマネーサプライが急増し始めたことであり、それに対して、日本のマネーサプライの増加は鈍いものであった。一九九〇年からの二十年間で、日本のマネーサプライの伸びは五割にとどまったのに対して、アメリカのマネーサプライは、ほぼ三倍になっている。これは、決してアメリカの伸びが大きすぎるのではなく、日本の伸びが小さすぎるのである。ちなみに、中国は、年率15〜20%、ときには30%以上の割合でマネーサプライを増やし続け、この二十年で五十倍以上に膨らんでいる。

もう一つは、円高ドル安の基調が続いたことである。ドル紙幣の方が円紙幣よりも、ハイスピードで増え続けたのだから、当然の結果である。唯一日本が果敢にマネタリーベースを増やしたのは、二〇〇一年から行われた量的緩和政策のときで、それによって、円高に歯止めがかかり、平成景気がもたらされた。しかし、このときも、効果が出るのに三年程度かかった。しかも、マネーサプライがようやく増え始めるや、マネタリーベースをかつての水準に戻してしまったため、デフレから完全に脱却することはできなかった。グラフを見ればわかるように、日本が量的緩和をやっていた水準で、アメリカは、この二十年以上、ドルを増やし続けているのである。日本が不景気の最中にも、円高に苦しめられた理由を、このグラフは如実に語っている。

では、リーマンーショツクが起きたとき、アメリカの金融当局は何をしたか。何とマネタリーベースをほとんど瞬時に、二倍以上に増やしたのである。その結果、あれだけの大きな経済危機が襲ってきたにもかかわらず、アメリカのマネーサプライはさほど停滞することなく、再び上昇している。日本の金融政策がいかに手ぬるいものであるかは、あまりにも明白だろう。デフレを二十年も引きずってしまった最大の理由も、この点にあると言わざるを得ない。マネーサプライの増加が不可欠。デフレを防ぎ、本来の経済成長を促し、雇用を生み出すために、もっとも重要なことは、金融政策をフル活用して十分なマネーサプライの増加を維持することである。金融政策が経済のバルブを閉めていては、他のいかなる努力も帳消しになってしまう。まず、マネーサプライが適切なスピードで増えていくことが重要なのである。