ノッペラボーの紹介文

論壇時評を始めるに当って私は読者を大切にするだけでなく、自分の立場をハッキリさせようと考えた。論壇時評には今日でも次のような言葉が使われている。「これは考えさせられる問題である」「……を紹介しよう」「……を読みとることができる」「という事実を指摘している」「いくつかの論点が目につく」「この点にくわしい」。これらの言葉はある新聞のある月の論壇時評から、実際に採収した言葉である。このような言葉でつなぎ合わされた文章は、ノッペラボーの出来の悪い紹介文であっても、決して歯切れのよい時評と言える代物ではない。これは評者が八方美人的な態度をとって、読者に自分の立場を示すという、批評家の義務を怠っているからである。しかしいざ自分で立場をハッキリと示して批評をするというのは、それはどやさしい仕事ではなかった。

およそ競争の激しい月刊誌にまともな論文を書くくらいの著者なら、誰でもいわば高い山によじ登って、その上に自分の視点を設定しているものである。そのような視点を持つ論文を批評するからには、評者も自分の山に登って自分の視点を確立しなければならない。そしてこの「視点」から「私はこう思う」と、責任をもって発言しなければならない。

しかし論壇時評のように、扱う問題が多岐に渡る場合は、自分の立っている山から、必ずしもすべての回題が見えるわけではない。そのような時は尾根伝いに近くの峰にかけ上って、自分の視点を設定しなければならない。論壇時評をやって一番大変だったのは、扱いつけない問題について、短い時間の間に、自分の視点を設定するという仕事であった。つまり自分の得意でない分野の勉強を、限られた時間のうちにこなさなければならないということであった。

このような論壇時評を続けているうちに私は、批評の方法は結局、科学の方法の応用だと考えるようになった。およそ科学の方法は、今まで述べて来たように抽象的な理論と、経験的事実との緊張関係から成り立っている。われわれは新しい経験的事実を発見することによって、理論をより現実に則した形に修正することができる。それと同時に、われわれは新しい理論を構築することによって、今まで気づかなかった経験的事実を発見することができる。そして批評とは糾局新しい理論、新しい経験的事実、そして両者の新しい相互関係に関する分析と評仙なのである。