戦争で先に手柄をたてる

ジョゼフージュニアがなぜそんな危険な任務を志願したのか、そこにはひとつ、上流階級に生まれた人間に共通する大きな特徴のひとつである向こう見ずな一面を、彼が備えていたという事情があった。一九四四年八月十二日、ジョゼフージュニアは、機密の任務を果たすために爆撃機に乗って飛び立とうとして操縦室に乗り込んだときに、仲間のパイロットに、保険の支払いは済ませたのか、ときかれてこう答えている。

「あいにく、僕の家族には保険を必要とする人間はひとりもいないんだ」だが、ジョゼフージュニアがこの危険な任務を志願したいちばんの理由は、ケネディ家の伝記作者の多くが指摘しているように、おそらく弟のジョン・F・ケネディに対する対抗心にあったように思われる。

ケネディ第二次世界大戦の英雄に兄に遅れること一年して海軍に入隊したジョンは、兄とはちがう太平洋戦線に派遣され、そこで『ニューヨークータイムズ』の一面を飾るほどの戦争の英雄になっていた。ジョゼフージュニアとジョンは、年齢の近い同性の兄弟のご多分に漏れず、対抗意識が強かった。

そもそも病弱で一度は海軍の徴兵検査ではねられた弟のジョンが、父親に裏から手をまわしてもらってまで従軍したのも、兄に対する対抗心からだった。しかもケネディ家では、父親は常に、「一番になれ。二番、三番では意味がない」と子供たちにいい続けていた。当然、兄弟のあいだには、通常見られる以上の対抗意識が育まれていた。

しかし、戦争で先に手柄をたてたのは、弟のジョンのほうだった。それは、自分が指揮官として乗っていた魚雷艇が、日本の駆逐艦と衝突して真っ二つに引き裂かれてしまうという偶然の出来事が生んだものだったが、偶然だろうとなんだろうと、弟が戦争の英雄になったことに変わりはなかった。

一九四三年八月一日、ジョンーケネディぱ、魚雷艇PT109に指揮官として乗船していた。彼の乗った魚雷艇は、太平洋のヴィーラ島に物資を補給する日本軍の貨物船と駆逐艦隊を攻撃することになっていた。だが、彼の乗った魚雷艇は、結局日本軍に遭遇できずに、そのまま基地に帰ろうとしていた。