国連安保理常任理事国入り問題

案外忘れられがちだが、自民党の一党支配が崩壊する直前まで、社会党選挙制度は、譲っても小選挙区比例代表併用制までだと主張していた。しかし、第二部で確認したように、細川内閣発足に当たっての八党派合意で、非自民政権の発足を優先させ、社会党比例代表並立制を受け入れたのだった。そのことの含む意味は、六年後の今日でも、社民党にとっても、日本の政治にとっても極めて大きいものがあろう。

同様に、村山内閣での社会党は、村山個人の判断で、日米安保条約の堅持、自衛隊の承認に踏み切った。既に、党内論議は尽くされていたが、自民党政権崩壊の直前まで、左派からの反発は強く見解は一本化されていなかった。村山が左派でなかったならば、党内合意は得られなかったかもしれない。その意味では、この政策転換にも偶然の要素はある。

消費税引き上げを社会党が容認したのも村山内閣であった。消費税廃止法案を提案し税制全体の見直しのなかで議論するといっていた社会党からすれば、あっさりとした政策の転換であった。自民党に対する譲歩といってよい。

細川内閣の国連安保理常任理事国入り問題、橋本内閣の国際平和協力法の改正。日本政府は、自民党政権時代から、一貫して国連安保理常任理事国入りを目指しており、宮沢内閣では対外的にもその方針を明らかにした。しかし、第三部で述べたように、細川首相の特別補佐となった、さきがけの田中秀征は、消極論である持論を展開し、結局「推されればなる意欲はある」という玉虫色の文章に書き換えられた。この方針は、自社さ政権になっても継続された。自民党が譲歩したのである。

また国際平和協力法は、施行三年後の見直しが規定されており、自民党は、隊員の発砲は、個人の判断によるものではなく、部隊指揮官の命令によるものとする法律改正を行う予定であった。しかし、社民党の慎重姿勢を考慮して、見送りが続き、結局法律改正が実現したのは、社民党が閣外協力を解消する直前の九八年五月のことであった。

日本人単身赴任駐在員の自殺トップは中国

神奈川トヨタ自動車では、新しい試みとして、部長や店長など管理職を集めて、「話の聴き方」講習会を開いた。講師の精神対話士の輿石邦彦さんは、「すぐ解答を出すとか、そんなこと間違っているとか、言うのではなくて、相談してきた人の言葉を一言も漏らさずにきちんと受け止めて、きちっと返してやる。これだけで、問題の半分は解決したと思ってもいい」と強調した。この講習会では、「寄り添うという感覚で徹底的にペースを合わせる」「オウム返しの相槌がとても大切である」などが説明された。

講習会に参加した店長の荒井秀俊さん(五二歳)は三ヵ月に一度、部下と一対一でじっくりと話を聞く時間を持つことにしていた。ある日は、転勤して間もないエンジニアや女性の事務職、営業職員など四人の話を聞いた。最後の中堅営業マンの話は、就業時間が過ぎた夜七時から始まり一〇時までの三時間も続いた。その社員は「うちの店の一番上の人間に直接、物申す。それこそストレス解消じゃないですか」と話す。一方、店長の荒井さんは「仲間同士で励まし合う。それがすごく重要。その積み重ねで、お客さまにも、この店いいね、気持ちがいいねと感じてもらえれば、売り上げアップにもつながる」と語った。

実際、この店では話し合いを始めてから、業績が伸びた。社員一人一人の幸せが、会社全体の幸せにつながることに、企業も気付き始めている。日本人単身赴任駐在員の自殺トップは中国。海外でも、日本人サラリーマンの心は病んでいた。特に、中国の単身赴任者の自殺が急増しているという。日本の海外駐在員の数は今や二三万人を超える。このうち中国は七・四万人と、第二位のアメリカの五・四万人を遥かにしのいでダントツの一位である。中国へ進出している日本企業の数は二万社以上と言われ、競争も激化している。そんななかで、中国は、日本人の自殺が海外でもっとも多い国となっていた(二〇〇四年、外務省調べ)。

上海安田化学品有限公司の責任者である深井史郎さん(五七歳)は、四年間ほど中国に単身赴任している。本社は、大阪にある化学品の専門商社で、深井さんは中国でのビジネスを取り仕切っているのだ。上海のオフィスは、住まいからバスで一五分。上海安田化学品有限公司に日本人は深井さんしかいない。残りのスタッフ八人は、全て現地採用の中国人だ。オフィスでは、コピーを自分でとる深井さんの姿があった。「スタッフに言っても、思ったようにコピーしてくれないから、自分でやった方が確か」深井さんは、言葉が上手く通じない部下に、コピーを頼むのが億劫なのだ。と、今度は中国人スタッフを集めての緊急会議を開いた。

「取引先の購買の人が、値上げは可能なので、その分を」と、日本語を話す中国人スタッフが報告する。取引先からバックマージンを要求されたのである。中国ではよくあること。何回断っても、同じような問題は起きてくる。日本とは、文化・習慣の違う中国。しかも言葉が上手く通じない。日本人は自分一人で相談相手もいない。本社に報告しても、現地の事情を理解されないこともある。ストレスがたまっている深井さんは、仕事が終わると、日本人向けの居酒屋に足を向けた。そこには、同じく単身赴任者で化学品の商社に勤めている仲間がいた。本来ならばライバルであるが、ここでは”同志”として話に花が咲く。ささやかなストレス解消だ。

門戸を世界に広げる

平成二年三月に「大分県先哲叢書編纂審議会」が発足。歴史学者、考古学者などを委員に任命し、すでに刊行への作業が始まっている。大分県では六一年から、「おおいた音楽芸術週間」を開いている。毎年一一月から二一月にかけて、内外の演奏家を招く。県民に音楽の素晴らしさを味わってもらう。この「おおいた音楽芸術週間」でもっとも大きな行事が、園田高弘賞ピアノコンクールの開催である。

園田高弘さんは、ピアニストとして世界的に著名だが、園田さんの父・清秀さんが大分市生まれということもあって、大分にゆかりが深い。「芸術は長い時間がかかる。若い人の可能性を認め、勇気づけ、伸ばしていくことが必要で、可能性を信じていくことが大切だ」と園田さんが六〇年に来県されたときにうかがった。そこで私が、「大分でピアノコンクールを始めたい、それもワルシャワのピアノコンクールに匹敵するようなコンクールにまでしたい」と話すと、園田さんは「文化や芸術には地方と中央の差はない、ぜひ協力させてください」と快諾され、園田高弘賞ピアノコンクールが始まった。

最初の頃は、コンクール参加者を大分県在住者か大分県の出身者に限っていた。ところが園田高弘さんが直接審査してくださるということで、評判が高まり。県外からもコンクールに参加させてほしいという声が聞かれた。そこで次第に参加資格を広げ、平成元年度からは対象を近隣諸外国にまで広げている。ちなみに、平成元年の園田高弘賞は韓国の朴鐘訓さん(延世大学二年)。大会五回目にしてはじめて、国外からの参加者が優勝した。この園田高弘賞ピアノコンクールを、世界一流のピアニストとなるための登竜門にしたいと考えている。近いうちに、門戸を世界に広げるつもりだ。

これからも、ローカルでありながらグローバルに通用する個性ある文化を創造する作業を続けていきたいと思う。これまで大分県で行なってきた地域活性化の方法を述べてきたが、一村一品運動にしても、高齢者対策にしても、またハイテク企業誘致、テクノポリス建設、地域文化の創造などにしても、ほかの県や市町村でも何らかの形で行なわれているものであり、とくに珍奇なものではない。

戦争で先に手柄をたてる

ジョゼフージュニアがなぜそんな危険な任務を志願したのか、そこにはひとつ、上流階級に生まれた人間に共通する大きな特徴のひとつである向こう見ずな一面を、彼が備えていたという事情があった。一九四四年八月十二日、ジョゼフージュニアは、機密の任務を果たすために爆撃機に乗って飛び立とうとして操縦室に乗り込んだときに、仲間のパイロットに、保険の支払いは済ませたのか、ときかれてこう答えている。

「あいにく、僕の家族には保険を必要とする人間はひとりもいないんだ」だが、ジョゼフージュニアがこの危険な任務を志願したいちばんの理由は、ケネディ家の伝記作者の多くが指摘しているように、おそらく弟のジョン・F・ケネディに対する対抗心にあったように思われる。

ケネディ第二次世界大戦の英雄に兄に遅れること一年して海軍に入隊したジョンは、兄とはちがう太平洋戦線に派遣され、そこで『ニューヨークータイムズ』の一面を飾るほどの戦争の英雄になっていた。ジョゼフージュニアとジョンは、年齢の近い同性の兄弟のご多分に漏れず、対抗意識が強かった。

そもそも病弱で一度は海軍の徴兵検査ではねられた弟のジョンが、父親に裏から手をまわしてもらってまで従軍したのも、兄に対する対抗心からだった。しかもケネディ家では、父親は常に、「一番になれ。二番、三番では意味がない」と子供たちにいい続けていた。当然、兄弟のあいだには、通常見られる以上の対抗意識が育まれていた。

しかし、戦争で先に手柄をたてたのは、弟のジョンのほうだった。それは、自分が指揮官として乗っていた魚雷艇が、日本の駆逐艦と衝突して真っ二つに引き裂かれてしまうという偶然の出来事が生んだものだったが、偶然だろうとなんだろうと、弟が戦争の英雄になったことに変わりはなかった。

一九四三年八月一日、ジョンーケネディぱ、魚雷艇PT109に指揮官として乗船していた。彼の乗った魚雷艇は、太平洋のヴィーラ島に物資を補給する日本軍の貨物船と駆逐艦隊を攻撃することになっていた。だが、彼の乗った魚雷艇は、結局日本軍に遭遇できずに、そのまま基地に帰ろうとしていた。

細菌はコレラの原因になることはない

コレラ菌がなぜコレラ毒素によって下痢を起こすかが、自然に理解されるように思えないだろうか。そしてコレラ菌が大規模に子孫を遺すためには、コレラという病気を起こさないとうまくいかない、ということにはならないだろうか。少なくともコレラ菌は、ただ患者を殺すためというように、意味もなくコレラを起こすのではないことは納得できると思う。たとえば患者が死ねば、患者のあらゆる機能が停止し、コレラ菌は患者の提供してくれる好適な小腸粘膜という環境を利用することができなくなる。

コレラ菌が毒素を作らなければ、したがってコレラという病気を起こさなければ絶滅してしまうのか、ということである。実は川の水などの環境から、コレラ菌に非常によく似た細菌が見いだされる。これらの細菌は通常、コレラの原因になることはない。おそらくコレラ菌が毒素を作らなくなった場合には、このように自然環境の中で存続していくと考えられる。逆に、これらの細菌がコレラ毒素の遺伝子を獲得すればコレラを起こすようになり、病原体として子孫を大規模に遺すようになるだろう。大腸菌の中には、コレラ毒素によく似た毒素を作り、コレラそっくりの下痢を起こす特別な菌株があることが知られている。このような事実も、コレラ菌にとってコレラ毒素が、子孫を遺すために役立っていることを示唆していると考えられる。

「通貨戦争」を勝ち抜く為には「融和」は足枷となる

FRBのさらなる金融緩和政策に金融市場の視線が集中する中、通貨高に苦しんでいるブラジルが予想外のタイミングで0.5%の利下げに踏み切った。ブラジルのマンテガ財務相が2010年9月に、「各国政府は輸出競争力強化のために自国通貨を操作しており、世界は『国際的な通貨戦争』状態にある」と発言してから約1年、ブラジルも「通貨戦争」に宣戦布告を行った格好。

BRICsの一角として世界経済の牽引車となることが期待されていた新興国の雄ブラジルも、先進国経済の失速に伴う景気減速(実質GDP成長率見通しプラス4.6%から3.5%へ下方修正)と、インフレ(7月CPI前年同月比 6.9%上昇)に苦しみ始めていた。経済構造の特殊性もあり、ブラジルは成長率見通し3.5%と、成長率に比較して政策金利12.5%に対して政策金利が高過ぎる状況となっていた。

その結果、ブラジル株式市場の8月末時点での2011年3月末比でのパフォーマンスはMSCI Emerging Markets(EM)構成21カ国の中で17位の▲16.02%(配当金を考慮しないUS$ベース)と低迷していた。

因みにEM構成21カ国の株式市場ワースト5は、トルコ▲22.97%(同)、ロシア ▲18.22%(同)、インド▲17.92%(同)、そしてブラジルである。これら株価が低迷する新興国の共通点は、インドを除いて政策金利が成長率予想(IMF World Economic Outlook April 2011ベース)を上回っている高金利国ということ。先進国の景気鈍化を受けて、高度成長が期待される新興国でも金利が成長の足枷になって来ており、トルコも今月政策金利を0.5%引き下げに動いている。

低成長からの脱出の処方箋に苦しむ先進国と、高金利が成長の足枷となっている新興国の一部は足枷となっている高金利の修正に動き出した。このことは今後の世界の金融市場に少なからず影響を与えるはずである。

ブラジルが「通貨戦争」に宣戦布告を行うなか、日本では野田新首相が各方面での融和を図った動きを見せている。先日「党内融和」のシンボルとして小沢元代表に近いとされる輿石氏を幹事長に据えたのを始め、1日には組閣前という異例のタイミングで経済3団体に就任の挨拶に訪れた上、自民党公明党両党との「1 回目のプロポーズ」となる党首会談を行い、(1) 東日本大震災の復旧・復興 (2) 積み残しになっている税制改正 (3) 円高・デフレ経済対策、を検討する3つの実務者協議機関の新設を提案。小沢元代表グループのみならず、関係が悪化していた経済界や野党に対しても「融和」を求め低姿勢を貫き通した。

「融和」を求めて低姿勢を貫き続ける新首相。その謙虚さには敬服するが、国難を乗り越えるために強いリーダーシップが求められる新首相が見せる謙虚さに危うさも感じてしまう。大連立を念頭においた「円高・デフレ経済対策」を検討する実務協議機関の新設は、日々情勢が変化する市場に対して機動的かつ大胆な対応をする足枷にもなりかねないもの。

謙虚さは人間としては美徳かもしれないが、強いリーダーシップが求められる今の日本で、新首相が見せる過剰な謙虚さは、「通貨戦争」の相手国や、政府のお得意の「投機筋」に対して弱みを見せることでもある。

決選投票で「泣き虫」を破った新代表、新首相は一日も早く「強いリーダーシップ」の片鱗を見せるべきである。「良い人に見える無能な首相」は、菅前首相だけで十分なのだから。

同盟における米国との関係

占領時代以来、軍事面で強く依存してきた米国との関係を、冷戦後の流動的な国際情勢下にどのように整えていけばよいだろうか。原則をいえば、一方では幼稚なナショナリズムに基づく「自主防衛」の冒険を排し、他方ではパワーを持つ者にともないがちな米国の独善、思い上がりにはクールに釘を刺していくことであろう。

九六年四月の「日米共同宣言」は、「安保堅持」と先に答えの出ている算式を解くようなものであった。「ソ連の脅威」と対決する米国と結ぶことにより、日本自体にとっての脅威に対処するというのが冷戦下の同盟である。

ソ連が消滅した以上、不要になったのではないかという日本、米国双方の国内にある疑問に答えるための共同宣言だったが、条約の改廃という選択肢は、日本政府には初めからなかった。

結果として同盟の目的は、「日本領土の防衛」という本来のものから「アジア太平洋の平和と安定」へと、大きく広がっている。実のところこの共同宣言でにわかに広がったわけではない。

冷戦中から米側は、日本を「アジア太平洋」での軍事行動の前方展開拠点と位置づけ、日本もこれを認めていた。共同宣言は、この実態を追認したものといえよう。

さらにいえば、湾岸戦争でも実行されたように、世界的規模で行動する米軍を支える機能を、日本自らが引き受けたというべきだろう。すなわち、「一極支配」となった冷戦後の米国と、冷戦下と同様に共同歩調をとっていくということである。

日本政府はこれを日本自身の判断にもとづく合理的選択とするだろう。しかし、敗戦後一貫して続けてきた「安保体制一辺倒」の単純な延長に堕していく危険は大きいといわざるを得ない。